「家族会議の意義」について考えてみる

2024-7-11(AYSA西部部会会員 MYZ)

 NHK朝の連続テレビ小説を欠かさず見ている。この上半期は「虎に翼」日本初の女性弁護士の三淵嘉子をモデルにした物語である。現在、主人公は戦後の混乱期の中で家庭裁判所の立ち上げや調停委員の助言などで多忙を極めている。そんな中、彼女にもう一回り大きく成長するために「新潟地裁」への転勤を命ぜられる。そこで家族間での難問にぶち当たる寅子、どうするか?

 忙しさに家族のことに耳を貸さなかった主人公寅子、家族全員から反発を受ける。「それはそうだろうな!」家族のことを義理の姉(花江)に任せて寅子は自分の仕事にしか頭にない。窮地に陥った彼女は「家族会議」をやろうという事をみんなに提案。「さすが!寅子」と私の心に響くものがあった。思うに、この当時家族会議をすること自体が珍しかったのではないか?子供たちが親にも自分の意見を言う。親も子供たちに家族として守ってほしいルールを言う。その話し合いが家族間の難問を氷解するのであろう。言いたいことが言えて、そして素直に受け入れる。このことをお互いに認めあうことが家族の在り方として大事なことなのだろう。

 翻って、私はこの「家族会議」に懐かしい思い出がある。戦後数年、私の実家は「スーパーインフレによる預金封鎖」や「農地解放」で経済的にも辛い時期があった。そんな状況の中でも、母は男の兄弟6人にはそれなりの高等教育を受けさせる気構えを持っていた。母はこのような時期を乗り切るためには家族の協力が必要だと思ったのだろう。それは、私が中学3年生のはじめごろだったと思う。突然、母から「月1回は家族会議」をしたいとの提案があった。長男は国家公務員として東北農政局管轄の八郎潟干拓事業に参画しており、遠隔地である。そして次男は大学生で東京に在住、三男は地元の大学に在籍、四男は高校3年でこれから大学受験、あと私や弟(六男)の今後の教育のこともあり、今の実情を家族全員で共有することを第一に考えたのだろう。

 確か夕飯を終え午後7時ごろから始めた記憶がある。話題は、「家(当時は田植えや畑を作っていた中で様々なイベントも開催していた)としての今月の予定」や「この地域イベントの予定」など、夫々に誰がその手伝いできるか。家事などの月々のルーテインを誰が担当するか。夫々がお互いに確認し合う場となっていた。このような話し合いの場があればお互いの事情もよく分かる。母は、今の厳しい時期を乗り切りたいと思ったのだろう。私は中学2年生ながらその当時の現実をそれなりに理解することが出来ていた。今思い出すのは、その「family meeting」になると母は「うきうき」してお菓子や美味しい飲み物を用意してくれていた。司会は三男の役割だ。

 今、核家族やシングルが増えてきている。このような古の「家族会議」はどのように受け止められているのだろう。それぞれの「家」としての存続を考えれば必要な事かもしれないが? 今日のテレビドラマで寅子が言った家族間の難問に立ち向かった「それでは家族会議をしましょう!」と、私には心に響いた一言だった。(完)

「家族会議の意義」について考えてみる」への2件のフィードバック

  1. myz 投稿者返信

    KNKさん HPへのアップとコメント有難うございます。私の実家の当時の生活を思いだせば、特に厳格に育てられた記憶はなかったです。でも、その家族会議で決めたルールについてはみんなで守る。何か不都合があればみんなでカバーする。こんなこともありました。ある晩、私が風呂焚き(当時は釜焚き、風呂焚きは私が当番)を嫌がっていた時に(期末試験中であったかもしれない)、私のすぐ上の兄(大学受験を控えていた)がそのことを聞きつけて「俺がやるから修ちゃんは勉強せい!」と。そのことは今でもすぐ上の兄と会えば「修ちゃんは未だその頃は幼かったからのう!」と、それが語り草になっています。その人その人での人生にいろんなことがあるのでしょう。この年齢になったせいでしょうか、ちょっとした出来事で、古の家族の思い出が私の脳裏に呼び戻されてきます。「記憶の配当」と言われています。その配当を有効に使うチャンスを見つけながら日々を過ごしたいと思っています.(MYZ)

  2. knk 返信

    MYZさん、やはりしっかりしたご家庭だったのですね。
    私の両親はまじめでしたが、そこまでの厳格な感じではなかったです。シリアスな感じの話では、ちょっと話があるからこっちへ来いといった程度でした。割とラフな所もある家庭でした(笑)。
    ーーー
    当時もいわゆる家族会議をするご家庭は、そんなに多くはなかった気がします。

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