2024-9-10(AYSA西部部会会員 MYZ)
令和6年9月7日、午後2時半過ぎ頃、千葉に住むK兄ちゃんから「Sちゃんが亡くなったそうだよ!」と電話があった。私は突然の訃報に言葉が出なかった。Sちゃんは今から4年前に鼻にがんが見つかって手術、回復しその後しばらく元気に暮らし日々の出来事についてK兄ちゃんと一緒にメールのやり取りもしていた。しかし、コロナ禍明けぐらいから、がんが骨に転移していることが判明したらしい。そこから、私達とのメールのやり取りはできなくなっていた。Sちゃんの病状については気になりながらも私から連絡することは少し控えていた。覚悟はしていたもののやはり早すぎる訃報である。Sちゃんは8月17日が誕生日で、今年75歳を迎えたばかりだ。男性の平均寿命が83歳からすれば本人もさぞかし無念だったのではないだろうかと憶測している。
Sちゃんは両親、長兄や長姉のいるお浄土へと還ったのだ。今は、おやじやおふくろ、おき兄ちゃんS姉ちゃんと会ってお茶を飲みながら若い頃の実家の世間話などで談笑しているのかもしれない。
ところで、私達の男の兄弟は6人いた。長兄と末弟との年齢差は18、Sちゃんが生まれたころには長兄は既に大学生、必然的に私の幼い頃の兄弟間での遊び相手は末弟のSちゃんだった。今、Sちゃんと遊んだ若い頃のことが蘇ってくる。庭に円を描いて二人でよく相撲を取った。Sちゃんが6勝4敗ぐらいでいつも勝ち越していた。また近くの田んぼ道でマラソンもした。いつもSちゃんが早くゴールしていた。Sちゃんはどちらかと言えば長距離、私は短距離が得意だった。また、ほぼ毎日2人でキャッチボールし、草野球(春日大社のお宮や稲刈り後の田んぼ、そして陶の地区対抗試合)でも一緒によく遊んだ。Sちゃんはサード、私はショート、Sちゃんもうまかったが、どちらかと言えば私の方が上手だったのではと自負している。
Sちゃんは私のすぐ上の兄と同じように中学・高校での成績はよかった。現役で京都にあるK大学工学部に合格した。Sちゃんが入学の為に京都に旅立ってから、実家は私(地元のY大学に通学)と両親の3人の生活が始まっていた。これは私が社会人になるまで約2年間続いた。
さて、私の社会人は大阪勤務で始まった。社会人になって2年目ぐらいだろうか、実家の母から京都で学生生活を送っているSちゃんの様子を見てきてほしいとの便りが来たことがあった。電話連絡で会う約束を取り、当時のK大学の近くで下宿しているSちゃんのところに京都見物を兼ねてご機嫌伺いをした。確か今出川通りにある聖護院駅から2駅ぐらいのところだっただろうか?Sちゃんが駅まで迎えに来てくれていた。そのころ母が心配していたのは学業そっちのけでトランプの“ブリッジ”サークルに埋没しているのではないか?との心配事だった。その後どのように学業生活を過ごしたかはよく知らないが、母からの便りに「先日S兄さんが来てお小遣いを頂き元気に学業に励んでいる」とSちゃんが葉書をよこしてくれたとあった。学業が順調に進みだしたと安心した記憶がある。
Sちゃんが卒業時にK大学の研修生として残り研究開発生活を送っていたが、その実証試験中に腕の筋肉を削り取られる大けがをしたことがあった。幸いにも大阪にいるS兄さん(義兄)のお世話でK大学病院へ転院し、そこでの丁寧な移植手術で事なきを得た。その時には母も随分心配し京都までSちゃんの入院生活の世話をしに来た。そのこともあり卒業後は民間への就職も考えたらしいが、私から両親2人が暮らしている実家に戻りY県庁に入庁することも考えてみてはとアドバイスをしたことがあった。Sちゃんはそのことを真剣に考えたようだ。その後県庁でどのようは経歴を重ねてきたか詳しいことは知らない。入庁から3年ぐらいすると、山口市嘉川にあるI家(お父さんは旧宇部興産のOB)との養子縁組が決まり、嘉川にある正法寺というお寺で結婚式、阿知須にある「アジスパホテル」で披露宴をした。その時に覚えているのは宴の最後の挨拶にSちゃんが森進一の「おふくろさん」を歌った。「おふくろさんよ!!おふくろさん!!・・・・・」。おふくろは今まであまり見せたことのない涙を流していた。おふくろとしてはSちゃんの結婚で子供8人を育ててきた最後のお務めとして感慨深いものが湧き出たのだろう。
兄弟がそれぞれに社会人となり、実家で両親や兄弟のアニバーサリーのイベントがあれば全員が揃った。時期はお盆かお正月か。やはり男兄弟6人も集まればお酒の勢いもありそれぞれに議論(?)を重ねる。時には夜明けまで続くことがあった。私達6人は不思議なもので、公務員(技術職)が2人、民間(技術職)が2人、民間(営業管理職)が2人で、お互いに経験した職務も違う。様々な立場での“言い合い”が始まるのも当然だった。Sちゃんも末弟でありながら上の兄貴たちには負ないと必死に食らいついてきた。今、その場面が浮かんできて本当にみんな若かった。懐かしい思い出だ。
私が宇部にUターンしてから実家でイベントがあれば、その前日にはすぐ上のK兄(千葉に在住)と3人、宇部72CC万年池東コースで数回ゴルフやった。また厚狭にあるプレジデントCCのメンバーにもなり、すでにメンバーだったSちゃんとはそこの月例や定例会など月に2~3回は一緒にラウンドした。Sちゃんはハンディシングルを目指し、最後にはその目標を達成したと喜んでいた。私はハンディ16が限界だった、ほとんどのラウンドではSちゃんにかなわなかった。
私は、70歳前後で股関節の具合が良くなくゴルフは断念したが、Sちゃんはそれからも随分とゴルフのラウンドを楽しんでいたらしい。ゴルフを止めたのは何歳ぐらいからだろうか?あんなに元気だったのに今でもあのバーデイを取った時の笑顔が忘れられない。本当に残念だけどこればかりは仕方がない。Sちゃんのご冥福を祈るばかりだ(合掌)
※写真の説明
1.自宅のお庭で
Sちゃんは左から2番目(小学校3年生ぐらいか)右端が筆者(中学1年生)
ちなみに左端からK兄ちゃん(三男)、母、H子ちゃん、T姉ちゃん(次女)
2.筆者の結婚式当日の出発前自宅の庭で 父親と男兄弟全員
Sちゃんは後列の右端 中列の左からK兄ちゃん(四男)、筆者、親父、K兄ちゃん(三男)、
後列がおき兄ちゃん(長男)、最前列がK兄ちゃん(次男)
3.宇部72CC万年池東コースにて
左からSちゃん、K兄ちゃん(四男)、K兄ちゃんの奥さんの弟さん、筆者