「残照への往還」(生きる力と死への覚悟について)-講師投稿

AYSA西部部会会員 講師USI氏投稿

4月27日13:30~15:30 に山口県アクティブシニア協会(AYSA)西部部会において下記のトークと意見交換会を行いました。

セミナーのまとめ

AYSAの皆さんは70歳代から80歳台初頭の方々が主で、それぞれの人生経験としっかりしたお考えをお持ちですので、今回は生死について焦点を絞ってお話しました。

私(薄井)の経験、特に自然科学の経験からこの物質世界の把握、宇宙物理学の基礎知識を基にしたビッグバンとその後の130億年と言われる宇宙の膨張過程などをお話して、私たちのいる宇宙の全体像と地球の歴史、その中に生きる私たち個々の命の捉え方については、皆さんかなり納得されたと思います。ただし3次元空間の世界が過去に遡ることのない時間軸に沿って未来に突き進んでいく4次元世界として捉えることは、個人差があるように感じました。

厳然として存在し物理法則に従って動いていくこの世界のみを自分の世界と考えると、人は死によって自分は全くの無に帰すると考え、現世の欲望・老いと病の苦しみ・死の恐怖に捉われて安寧な日々の生活や安らかな死を迎えることが出来ないと考えます。

そこで、私は自分の心の中に形成される世界は、自分が認知できる世界であって、そこでは物質世界に支配されない融通無碍の見方が出来るのだと考えます。これはものを自由自在に観ることであって、「観自在」と表現しました。(観自在菩薩の観自在です)同時にこころの世界は物質に捉われず自由に現実の世界を異なった位置に座標変換・変数変換できます。変換則は大変複雑なものになるかと思いますが、数学の多くの変換則と同様に任意の位置に異なった形に変換できると考えます。

ここでビッグバン以降の膨張する私たちの宇宙の外縁よりも遠いところに、例えば残照に照らされた冬薔薇を見つめ、それを瞬時に変換して光速で遠ざかる世界に写像できると感じます。そこでは観無量寿経に描かれる世界を見つめ、阿弥陀仏の光り輝くお姿を拝したと思う間もなく、現世の冬薔薇に逆変換して私の世界はこの世に往還すると感じます。そのように、この世のあらゆるものは彼岸の世界においては何でもありの自由な観方が出来ると思うのです。禅の公案「隻手の声を聴け」も難なく心にすとんと落ち着くことが出来ます。このような心境でこの世に往還したわたくしは、人に良くしてあげるこころで日々を平安に暮らしていくのです。

以上が、私のトークの骨子でした。

セミナーの様子2023-4-27

意見交換会の内容の概要

(メモを取る余裕が無かったので、記憶を辿って概要のみを以下に示します)

  • Q. 薄井さんの自然科学にベースを置いた世界観(相対性理論や量子力学の世界)は理解するのがかなり困難でした。
  • A. 特に光速に近づいた時の時空の歪みや物質と光の入れ替わりについては、説明不足の面があったと思います
  • Q. 薄井さんの考えている心の世界は宗教なのでしょうか?宗教に帰依した人の救いと薄井さんの論じられている世界は同じものなのでしょうか?
  • A. 釈迦が瞑想の究極において開いた悟りの世界と同じかと言われると、私の考え(認知)はおこがましくて、とても及びがつかないと思います。それでも、原始仏教で解かれているプリミティブな仏教の考え方とは方向性は同じなのではないかと思っています。仏教では後世のお坊さんが沢山の経典を編纂して、それらを土台にして現在の仏教が成り立っています。そのような膨大な経典を自分の身につけることはできませんが、限られた時間の中で自然科学にベースをおいた、私のこころの世界は一つの悟りの境地ではないかと思っています。
  • Q. 時間は一方向(エントロピー増大の方向)にまっしぐらに進んで、決して後戻りしない。そう捉えて、割り切ってしまうと案外安心して生きて行けると私は思っていますが、どう思われますか
  • A. そのように割り切って生きて行けるならそれに越したことは無いと思います。
  • Q. 自分の歳になると、死後の墓仕舞いなど、色々と頭の痛いことが起こってきて、悩んでいます。
  • 参加者から、ほぼ共通して同じ悩みの発言が相次ぎました。海への散骨、森林葬などの情報交換、山口県には東本願寺の大谷派の寺が無いことなどの発言もあり、情報交換の場となりました。

「残照への往還」(生きる力と死への覚悟について)-講師投稿」への3件のフィードバック

  1. Rj2c5Ub9W_usi 返信

    USIより

    MYZさんへ

    土曜日午後1時からのNHK Eテレの番組「こころの時代」は時々視聴しています。NYZさんのコメントにある「作家 加賀乙彦・・・」の放映は生憎見ていませんでした。僧侶や牧師さんのお話でなく、自然科学とか医学畑の人の語りは興味深いですね。私もフェイスブックの友達で僧侶の方々の投稿をよく目にしますが、仏教の細かい概念や教義は短いフェイスブックの記事では伝えるのが難しく、しばしば消化不良気味になってしまいます。その点、自然科学とか医学から神や仏を考えた人は、単刀直入に本論を示すので心に直接響きます。MYZさんのコメントにある「こころ」はそれぞれの人が、何ものにも支配されない自由で広い世界を確立して、その世界で幸せに生きていく、と言うことではないでしょうか。

  2. myz 返信

    USIさんへ
    6月10日(土)午後1時からのNHKEテレで放映された「こころの時代」を偶然に見ることができました。今回のテーマは「宗教人生アーカイブの追悼番組」で2003年に放映された「作家 加賀乙彦が語る 58歳の洗礼に至るまでの出会いと迷い」でした。(加賀乙彦は2023年1月12日に93歳でご逝去)
    彼は東大の医学部を卒業し、精神科医として勤務のかたわら、小説の執筆を始めたとか。彼がキリスト教の洗礼を受けたのは、ある神父との問答だったと言っている。彼に3昼夜とことん質問し、最後に質問することがなくなったときに、今までにない不思議な感情が心に湧き出たと。今までの苦悩と思っていたことが、「ストン」と心に落ち、気持ちが楽になった。私たちは、宗教にかかわる様々な書籍を読んだとしても、それ以上に進めていない。そこで、終ってしまう。彼が、壮年期に実感した信じる恵みとは何だったのか?彼は親鸞聖人の「歎異抄」とも言っている。そして、彼が例えたのは、登山(登りも下りも苦悩が付きまとうがやりきったときのその心)。人は何かを成し遂げようとすると、それに苦しみが付きまとう。しかし、その苦しみが楽しみになる境地にいたる「こころ」とは何か?それが「信じる恵」なのだろう。それには「人生の賭け」が必要だと。USIさんの今の境地はこんなところにあるのだろうか?今回を機会に「加賀乙彦」について少し調べてみようと思いました。
    臨床心理学を極めておられるUSIさん、何か通じものがあるのではと、ここにコメントをさせていただいた。合掌(MYZ)
     

  3. myz 返信

    「残照への往還」(生きる力と死への覚悟について)講師のトーク骨子を何度も読ませて頂いた。正直、難しいトークである。それは、自分の心の中に形成される世界は、自分で認知できる世界であって、そのことは、物質世界に支配されない融通無碍の見方が形成できる。これはものを自由自在に観ることであって「観自在」(観無量寿とは違う?)と表現されている。人は、そこまでの境地を体得することは果たしてできるのだろうか?ところで、5月6日(土曜日)のNHKEテレ午後1時から「こころの時代」(時間があればたまに見る番組)の再放送で京都鹿ヶ谷・法然院(梶田真章氏との会話)の四季(森に息づく命の縁起)を放送していた。彼は、人の世界は「因・縁・果」の循環であると語っている。因果の間に必ず縁があると。一生懸命練習すれば、必ずしもすべてで勝てるわけではない。その間には自分にあった縁の存在が必要であると。この縁をみつけるのが、講師トークの基軸になっているのではないかと感じる。まさしく「シンクロ二シティ」(意味ある偶然の出会い)もそうであろう。仏教でいう「他力本願」(南無阿弥陀仏 仏に帰依する)ということにもなるのか?私たちは、このことを、自分の心の中に受け止めて「あるがままに」日常生活送る。そのことに尽きるような気がする。合掌(MYZ)

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